眠れない物語のペイジ

私立恵比寿中学の諸々を徒然なるままにつづるブログ

『ボクコネ』と観客を繋ぐもの

 

【まえがき~観客と物語の接点~】

 

「おもしろい」とは何か、というさんざんっぱら語られた話から恥ずかしげもなく出発する。

 

観客が物語に没入し、その作品を「おもしろい」と感じるとき、そこに生じているのは「理解」と「共感」の組み合わせである。

 

「理解」とは恐らく最も初歩的で構造的なものだ。「今はどのような状況か」「こいつとこいつの関係性はどうか」「起承転結はどうか」といったこと。前提として設計図が理解できなければ、観客は物語に没入する準備すらできないのである。この「理解」にあえて多少の欠陥を張り、強烈なカタルシスを与えるのが世に言う「伏線回収」だ。また「理解」にあえて様々な可能性を示すことで「わからない」を楽しむことも、特に演劇では往々にしてある。そのことについては別のブログを参照していただきたい。

 

『ボクコネ』の虚構性について - 眠れない物語のペイジ

 

 

そして「共感」はその先にある。話が分かったとして、登場人物の一挙手一投足に共感ができなければ、観客はいつまでたってもその物語から遠いままである。「共感」を見つけて初めて、観客はその物語を主観的に楽しめるようになるというわけだ。

 

「理解」で客観的に物語を把握し「共感」で主観的に入り込む。つまり「理解」は前提、観客と物語の接点は「共感」の方にある。(正確に言えば、共感も理解もできないけれどおもしろいという作品もある。それについては今回は割愛させて欲しい)

 

さて、こうした「共感」が補わなければならない幅は意外に広い。物語は学生生活やアルバイトといった、我々が経験したことのある事象ばかりではないからである。例えば大きく時代が異なっていたり、物語の設定があまりに特殊なものである場合、どのようにして接点を与えるべきだろうか。

 

その場合、そこにある接点は、ギリシア悲劇に見る「人間の業」や、シェイクスピアの種々の作品に見る「復讐心」や「禁断の愛」「罪と罰」といった類いの普遍的な精神であることが多い。これらは時代を越え、我々にも性別や地域の差なく想像ができるためである。

 

また、観客と物語の接点が登場人物によって補われる場合もある。

観客と同じ目線で周りに振り回されてたくさんの影響を受けながら、葛藤し、成長を遂げる存在。物語構造を客観的にして「観客」と「物語」の丁寧な橋渡しをしてくれる人物。いわゆる「観客目線の役」である。

 

『アンナチュラル』の久部六郎、もっと構造的に見ればナイツの漫才における土屋伸之など色々な例はあるが、わかりやすいところでは『エクストラショットノンホイップキャラメルプディングマキアート』における川辺真純(小林歌穂)がそれだ。「普通に演劇やりませんか?」が言えないという葛藤を抱かせることで「おかしな演劇部」を客観視させ、振り回されることで状況を整理し、彼女の成長を通して物語を解決に導いている。川辺真純を軸として作品を観ると、この物語は非常にスッと入ってくると思う。

 

まえがきが随分と長くなってしまった。

 

本題。では『ボクコネ』におけるこうした接点は何だろうか。観客は『ボクコネ』の何に、誰に感情移入して、作品に没入していくのだろうかということについて考えたい。

もちろん、これは『ボクコネ』が観客との接点を持っているという前提の話である。もしもあなたが本作を少しでも「おもしろい」と感じたのなら(「つまらない」と感じなかったのなら)、出来ればもう少しだけ、このブログを閉じないで欲しい。

 

【『ボクコネ』と観客を繋ぐ精神】

 

『ボクコネ』には観客と物語を繋ぐ普遍的な精神がある。

 

それが何か、本編を観た人なら考察するまでもなく、その正体がわかるだろう。作中でも度々話題にあがり、ホワイトボードには仰々しく書かれていた「利他主義」ならびに「利己主義」である。あるいは「利他主義」を強調することによって際立つ、醜い「利己主義」と言い換えられるかもしれない。

 

彼氏に貢ぐ、妻を殺す、引きこもる。登場人物が繰り返す行為は、他人の為に見えるそれも含めて全て自分が中心にあるということを浮き彫りにしている。さらに地球滅亡に際し、「生き残る為の犠牲」という決断を迫られることで殊更にその利己主義ははっきりとした輪郭を帯びてくる。いくら上司に媚びへつらっていても、最後にはあっさり銃口を向けてしまうのだ。私たちの中にも少なからずあるこうした醜さを表すことで、物語は観客の没入を許しているのである。

 

さて、ではそれだけであろうか。『ボクコネ』は「利己主義」だけを観客との接点としているのだろうか。

本編を通して観ると、限りなく私たちに近い距離でその心情を揺らしている人物の存在に気がつくだろう。次に「板垣恭子」について考えなければならない、と私は思う。

 

【『ボクコネ』と観客を繋ぐ人物の可能性】

 

その前にまず『ボクコネ』における登場人物の性質には3つの大きな分岐があるということを明記しておかなければならない。

 

第一に『宇宙へ招くもの』と『宇宙へ招かれるもの』という分岐である。クラブツーリズムの山田と佐藤、ボロアパートの住人たちがそれぞれこの対比に当たり、後者は前者の影響を受けている。

 

第二に『外側へ逃避するもの』と『内側へ逃避するもの』という分岐である。前者はミチと日野、後者は板垣である。

 

ボロアパートの住人は皆共通して、「社会のゴミ」である現実からの「逃避」をしている。最初の場面、誰も「カーテンを開けたら景色が…」といった話には言及せず電波障害に違和感を覚えていることから、板垣同様、日野やミチもまた「カーテンを開けない生活」を送っていることが分かる(これについては展開上の配慮で、作者の意図の範疇を越えた指摘かもしれない)。しかし、その「逃避」の性質がそれぞれに異なっているのだ。

 

日野は、自らが現実から遠ざかることで逃避する人物である。結婚詐欺の事実から逃避するために、何もない部屋から板垣の部屋へと逃げている。地球滅亡という現実(あるいはそのことに何の後悔もないという現実)から逃避するために作戦会議場所から逃げている。また、幼少期を過ごし、少なからず劣等感を抱えているであろう施設にもしばらくは行っていない様子である。現実を見ないように遠ざかり、人やモノを精一杯に傷つける。感情やボリュームの狂った、変に間の詰まった暴力的な会話の連続もこの逃避を示唆しているのかもしれない。方向は常に外だ。

 

ミチは、現実の隣にある可能性を見ることで逃避する人物である。自分の生活を楽しみ、自分に自信を持ち続けることで世間一般の評価軸に囚われないようにしている。自分の歌を「わからない」と否定する板垣に対し「わかる人にはわかんのよ」と言ったり、山田や佐藤の「利他主義」を信じたり、「これから先のことを考えた方がいい」と日野にアドバイスを送ったり、人を巻き込みながら楽しい可能性を常に考えている。子役→地下アイドル→シンガーソングライターという経歴もこうしたミチのマインドの表れかもしれない。これも方向は外だ。

 

一方、こうした二人とは根本的に逃避の方向が異なるのが板垣である。彼女は「引きこもり」をする、自分の内に閉じこもることで逃避をする人物である。頑丈な鍵を要求し、布団、ヘッドフォン、冷凍睡眠を使って独りになることを選択している。周りを現実から遠ざけ、自分の世界を構築することで逃避する人物だということがわかる。方向は内だ。

 

こうした3人の性質の違いは、スイッチの話を聞かされた直後によく表れている。日野は山田にダーツを当て続け、ミチは宇宙船の食料の話をし、板垣は閉口を貫いている。

 

ボロアパートの住人たちのこうした「逃避」への性質の違い、これが第二の分岐である。

 

第三にそうした「利他」「利己」「影響を与える」「影響を受ける」という世界から逸脱している、遊離してしまった存在として柚子ちゃん、そして宇宙少女という分岐がある。これについてはまた後述したい。

 

【板垣恭子という存在】

 

さて、このような分岐の存在を明らかにすると、板垣恭子という人物の存在が(柚子と宇宙少女を除いて)他と少し異なっていることがわかるだろう。一人だけ常に影響を「受ける」側に立っているのである。ここで、板垣はこの物語の軸、いわゆる「観客目線」なのであろうか、という疑問が浮かび上がってくる。

 

影響を受ける人物が、観客と最も距離の近い存在になるのはよくあることだ。「観客」と「舞台上」という関係を考えると、前者は後者の影響を常に受け続けているためである(もちろん与えている側面もある)。さらに言えば、舞台設定は常に板垣の部屋であるし、最初から最後まで舞台に出続けている唯一の人物であるし、パンフレットの最初にクレジットされている。こう様々な要素を並べてみると、板垣の性質の違いがよくわかる。

 

果たして、板垣恭子は主人公なのだろうか。観客は板垣に感情移入し、板垣を接点として『ボクコネ』を鑑賞するのだろうか。

 

【板垣は「観客目線」なのか】

 

結論から言うと、彼女は観客目線に限りなく近い。しかし、主人になりきれていない側面、なりきらないように仕組まれた側面を持ち合わせていると思う。そう考える理由は大きく2つ「葛藤の特殊性」と「成長の挫折」にある。

 

まず前者について考えよう。

 

板垣恭子は、3ヶ月前におばあちゃんが死んで、これ以上自分を愛してくれる人がいない可能性を感じ「引きこもり」という選択をした。しかし、これが全くうまくいっていないらしい。当然である。

板垣の部屋を見ると、確かに喪服は片付けていない(あるいは片付けられない)ままであるが、ゴミ箱は空、光熱費や携帯代の類いもきちんと払われており、ベルマークもきちんと貯まっている。これら全て「生活」の痕跡である。また、部屋に上がり込む人に対し、あまり物理的な追い出しをしていない(そうしてしまうと物語が進まないのでこれは無粋な指摘である)。なんだかステレオタイプの「引きこもり」を自らが否定する側面があるのである。

 

「引きこもりってさぁ、ずーっと部屋に引きこもって、誰ともコミュニケーションを取らない人のことだよね?」という日野の問いに対して、「そうですよ」と答えた板垣。

板垣は、日野やミチの介入による「引きこもり」の途絶を主張するが、自らも生活を繋ぎ、コミュニケーションの遮断を回避している側面があるのだ。だとすればその理由は何なのだろう。

 

この複雑さ、つまり「葛藤の特殊性」が観客目線を少し遠ざけている。「おばあちゃんの死」に希望をなくしたのは確かであるが、そこに絶望もない。そんな複雑な胸のうちに観客の共感を任せるのは、いささか難しいように感じる。

 

ついでではあるが、彼女のそういった心情に関しては『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』の主人公イングマルと重ねることで考察したい。

 

母親の結核、楽しくない毎日、しかしそんな人生も「ライカ犬よりはましだ」と独白する少年イングマル。飼っていた犬も知らぬ間に殺処分され、自分が居場所だと思っていた親戚の家も少し離れている間に随分と変わっていた。

 

ここまでの話に関してはおおむね作中でも板垣によって触れられている。

 

しかし、この後の話には触れられていない。続きはこうだ。

 

イングマルはついに希望をなくし、叔父さんの小屋に鍵をかけて閉じ籠ってしまう。探しにきた叔父さんが開けるように言っても抵抗し続けるイングマル。そんな様子を察して、叔父さんは犬の殺処分を黙っていたことを謝り、小屋で眠っていいよと声をかける。次の日、叔父さんはイングマルの横に座ってそっと慰めてくれた。そこから雪が溶けるように、物語の中で彼の人生は明るい方向へと好転していく。

 

イングマルにとっての叔父さん、そんな存在に近かった板垣にとっての「おばあちゃん」があっけなく死んだ。板垣は、そうした人物の不在を信じたくなくて、引きこもることを選んだのではないか。イングマルが小屋に閉じこもったように、板垣は自分の部屋に閉じこもることで、自分にとっての「叔父さん」はまだいるのだ、この先の明るい未来をまだ信じてもいいのだという可能性を自分の中に残しておきたかったのではないか。

「可能性がない世界」に身を置かなければ、可能性を信じることができないのである。それでもやっぱり信じたいから「引きこもり」を自ら妨害するのだ。

柚子のように「宇宙はすごい広いですからね」と言えれば、彼女は最初から引きこもる必要なんてなかったのかもしれない。

 

(もちろんこれは考察である。板垣が「ネットに良いって書いてあったんで」と特に思い入れもなくこの映画を評していたことなどからいくらでも反論の余地はある。)

 

【板垣の利他と利己】

 

さてもう一つ、彼女は「成長の挫折」をしている。

 

物語の後半、「利他主義」を選ぶか「利己主義」を選ぶかという大きな選択において、作中で最も「利他主義」への一般的な揺らぎを見せていたのが板垣である。

 

断言してしまうとなんだか語弊がある気がしてならないが、利他主義はいわば「キレイゴト」である。人間、善意や慈悲はあっても最後あるいは最期は自分が一番かわいくて自分を大事にしてしまうものだと思う。しかし、物語も虚構なのだから、往々にして「キレイゴト」だ。クラス1のイケメンと付き合ったり、弱小チームが勝利を遂げたり、友情やら正義やらを観客は大いに期待してやまない。

 

板垣が揺らぎの意思を見せた時「利他主義に傾く」というシナリオは容易に想像がついたはずだ。利他主義を選ばないにしても、利己主義を否定するための何らかの手だてをとり、そうして「成長」するだろうと。

 

しかし、板垣は容易に成長を諦める。

 

眼前で繰り広げられる利己主義の醜さに憤り、音楽に閉じこもっている間に起こったとんでもないカオス。その惨劇に絶望を覚え(この場合はパニックになり、と表現した方が近い気はする)簡単に冷凍睡眠への引きこもりを選ぶのである。

 

音楽をかける直前に映った『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』のエンディングは、イングマルが小屋に閉じこもった末に手にした明るい未来を表しているのかもしれない。「出てけ」と言った後、それぞれがあっさり板垣の部屋から離れていく。板垣はイングマルにはなれなかったのである。

 

そして「ライカ犬よりはましだ」と言わんばかりに柚子ちゃんを差し出す。この行為に関しても様々な考察があるが、自分だけは生き残りたいという醜さなのかあるいは冷凍睡眠を諦めによる自死と捉えるかの分岐はあっても、柚子ちゃんに対する利他主義的な側面はどうしてもうかがえない(と私は思う)。

 

観客が淡い期待を抱いていた「キレイゴトストーリー」はとんでもないスピードで裏切られ、今まで軸だと見積もってきた板垣が急にいなくなる。私たちの前に、突然の利己主義によって残された柚子ちゃんの「何も出来ない悲しさ」が急に沸き上がり、どうしようもなく切なくなるのである。

 

こうした物語構造は、例えば『コンフィダント・絆』や『アルトゥロ・ウイの興隆』に似ている。天才と凡才の根本的な違い、埋められないものを見せつけられた後に残るシュフネッケルの共同生活の記憶、独裁者のヒーロー性を見せつけられた後に残る実際のヒトラーの洗脳の恐怖。没入していたものからふと切り離された時に我に帰るように感情が沸き上がる。我々は何だか取り残された感覚に陥るのだ。

 

最後の最後で、板垣恭子は明確な意図を持って、観客の期待から切り離されたのである。まるで、ロケットブースターのように。

 

【田中柚子は宇宙少女】

 

最後に少し突飛な考察を始める。

 

『ボクコネ』における第三の分岐、「利他主義」や「利己主義」から遊離した二つの存在が、田中柚子と宇宙少女である。

 

「ボケ老人」となり、宇宙少女以外からはまともに相手にされない柚子と、柚子以外には見ることすらできない宇宙少女。宇宙少女の言葉を借りるなら、二人は「似ているところにひかれあった」のであり、まるで合わせ鏡のように自分たちの存在を写しあっている。

 

だとすれば「誰にも気づかれず、構われることもなく、今にも消えてしまいそう」な宇宙少女を救った柚子の行動は、同じように一人になってしまった自分を誰かに掬い上げて欲しいという願いの表れなのではないか。柚子にとっての「救済」とは何なのかについて考えたい。

 

それを考えるには柚子の過去、家族との関係を振り返らなければならない。

板垣が読んだ手紙から、ボケて幼児退行してしまう前「この家で一緒に暮らそう」とまで言ってくれた息子家族を利己的に裏切り、絶縁されてしまったことに深い後悔の念があったことが分かる。「拝啓」に始まり「早々」で結んでいることから、常識のなさもうかがえるのではないか。

この「絶縁」と「ボケたこと」に直接的な関係があるか、それははっきりとはわからない。しかし、日野の発言から「ベルマークへの言及=宇宙少女との出会い」と「おかしくなった時期」が重なっていることは確かだ。宇宙少女が柚子の内にある孤独の表出なのだとしたら、絶縁の引き返せないショックから認知症を起こしてしまった可能性も十分に考えられるだろう。

 

そんな柚子ちゃんは、「ボケ老人」になり「逃避」を始めたからといって救われたわけではない。台本は簡単に読めたのに手紙は一向に読めない(読まない)し、家族の存在を「知らないもの」として拒絶してしまう潜在意識があるのだ。また、その拒絶と相反するように、住民票を変えず、家ごとまるまるパックを選び、いつまでも家族の帰りを待っている。

きっとかつて利己主義に走ってしまったことへの償いが果たされない限り、柚子ちゃんは救われないのだろう。

 

「10分経ったらスイッチを押してね」そうやって醜い利己主義に走ってしまった板垣。もちろんその選択に意識はもうないが、柚子にとっては、そんな板垣のためにスイッチを押せることが、最後に利他主義を実現できることが、家族や自分へのようやく果たすことができる救済だったのかもしれない。

 

そんな悲しい利他主義を前に、宇宙少女は時間をはぐらかすばかりである。それでいい、10分を永遠にして、楽しい銀河のお話を続けようと言わんばかりに。