眠れない物語のペイジ

私立恵比寿中学の諸々を徒然なるままにつづるブログ

『ボクコネ』の虚構性について

 

 

まえがき

 

「シアターシュリンプとはまた違うエビ中の舞台を楽しんでいただけたらと思います」

 

『ボクコネ』の情報解禁に際して、小林歌穂はそうコメントを残した。

 

脚本家が違う、4年前とは演技経験の幅が違う、ただ単純にその程度の意味で彼女はこの言葉を綴ったのかもしれない。しかし『ボクコネ』を観終えた今、僕はこの「シアターシュリンプとはまた違う」という言葉を何度も反芻し、その意味を考えてしまう。運営が目指したもの、エビ中が今作での芝居を通して挑戦した世界の輪郭が、眼前に迫ってくる感覚が確かにあったのだ。

 

この感覚を無理やり言葉にするなら「演劇らしさ」とでも言ったらいいだろうか。ひどく漠然としているが、作品全体を通して今までに無かった演劇性、何かとても「演劇を観ているな」という実感があったのである。前作、前前作とは明らかに根本から一線を画しているこの気配の正体について考えてみたい。

 

虚構とリアル

 

 

この「新しさ」については運営もはっきりと言及をしている。

 

 

つまり、人による見方の違い(あるいは男女による感覚の違い)を体験すること、新たな演出家に指導を受けることにより芝居の可能性を膨らませようという類いの新しさである。しかし、これはあくまで「演出方法」への言及に過ぎない。言ってみればそれは作品の外側、世界を彩る方法についての変革である。(ただ、こうした試みを取り入れるという姿勢から、エビ中と芝居に対しての運営(校長)の本気がきちんとうかがえるのは確かだ)

 

しかし、果たしてそれだけであろうか。土屋亮一さんも高羽彩さんも、演出家である前に生粋の劇作家だ。もっと内側、舞台上で繰り広げられる物語根本においてもなにか明確な「違い」があったことは『ボクコネ』そして、シアターシュリンプを観た人ならひしひしと感じ取れたことであろう。もっとストーリーに肉迫するような、構造自体の違いが。

 

その違和感の正体、それは「虚構性」の違いである、と思う。

 

演劇は、全て虚構である。劇場という嘘の空間で、役を演じるという嘘の行為を行う、言わば虚構の芸術である。

これと似たような虚構芸術には映画がある。しかし例えば、ドキュメンタリーのような作品にその違いがはっきりと見て取れるだろう。実際の資料映像を使って事実の記録の連続を克明に映し出せる映画に対し、演劇は事実を再構成して、その都度役を当てはめて、必ず演じられなければならないのである。例え本人が舞台上に立ったとして、それは「本人役」ということだ。

 

また、こうした虚構性が常にリアルと地続きに存在しているというところにも演劇の特徴がある。劇場空間というリアルと舞台設定という虚構。観客というリアルと演者という虚構。会場における時間というリアルと物語における時間という虚構。リアルが常に目の前にあるから、虚構を許し、面白がるという行為に整合性が生じるのかもしれない。平田オリザが試みた人間とロボットの日常も、「ハムレット」「セールスマンの死」などに見られる実像と虚像の同居も、その虚構は常にリアルと隣り合わせであって、それがはっきりと「演劇らしさ」なのだと、僕は思う。

 

この「虚構とリアル」について考えると、これまでの2作品と『ボクコネ』の違いの輪郭がはっきりしてくるだろう。

 

場所と時間に飛躍がなく、おかしな行動の連続はあっても、それが「現実」を決して逸脱することがない土屋亮一さんの作品。起承転結の美しさ、伏線の妙、構造のカタルシスを見せたい彼の作品は、純粋な「エンターテイメント」いや、本人の言葉を借りるなら「90分もののコント」なのである。それゆえ、そこにリアルと地続きの虚構は存在する必要がない。

 

対して『ボクコネ』はどうだろうか。家賃とベルマーク、ボロアパートと宇宙空間、生存と滅亡、人間と宇宙少女、いくつものリアルと虚構の連続が作品の中に凝縮されている。これが「演劇らしさ」の正体なのである。

 

今回、作品をエビ中にあてがったのではなく、エビ中を作品にあてがったその順序の逆が、この「リアルと虚構世界への挑戦」を可能にしたのかもしれない。考えてみれば、アイドルという虚構、中学生という虚構の前に彼女たちのリアルは常にさらされている。10周年を終えた今、そうした世界に足を踏み入れる意味は十分過ぎるほどにあるのだ。

 

よくわからない心地よさ

 

しかしながら、こうした「演劇らしさ」は毛嫌いされやすい一面もある。その理由は「虚構だから」つまり「正解がないから」であろう。伏線があって、美しい起承転結がある。はっきり言ってシアターシュリンプ、いや『エクストラショットノンホイップキャラメル プディングマキアート』は老若男女誰が見ても楽しめる傑作だ(『ガールズビジネスサテライト』に納得が言ってないことについてはまた機会があれば書きたい)。対して前述したような「演劇らしい」作品はどうだろう。舞台上のその物体はロボットかもしれないし、人間をロボットに代替しているだけかもしれない。彼が話している過去の時間軸の人間は幻影なのかもしれないし、本当に存在しているのかもしれない。宇宙少女は存在しているのかもしれないし、柚子ちゃんが作り出した想像の産物なのかもしれない。そんな正解のない虚構の連続ばかりが入り乱れて「どっちなんだよ!」とカスクサに言われてしまいそうだ。

 

虚構にははじめから整合性がない。だから、観客の想像力が許す限り、いくらでも物語に幅が生じてしまうのである。

その可能性の分岐を反芻するのにはとても時間がかかるし、時間をかければ決して1つに決まるわけでもない。そんな「よくわからなさ」を、つまらないとあしらってしまうか心地よいと思うか。「君の名は」のクローズドエンドの大ヒット、「打ち上げ花火…」のオープンエンドの小ヒットを思うと(もちろんそれだけが要因ではないのは重々承知であるが)、おそらく大勢が前者に傾いているのだろう。なんだかとてももったいない気がする。

 

ことアイドルの舞台でそんな「よくわからなさ」に挑む必要はないのかもしれない。しかし、せっかくエビ中の運営がそんな世界への挑戦を試みたのなら、その第一歩として高羽さんの『ボクコネ』を選んだのなら、ファミリーは一度たっぷり反芻してみるべきなのだと思う。

 

まずは一人でたっぷり反芻して、分岐について考えて、例えば酒でも飲みながらあーでもないこーでもないとみんなで語りあってみる面白さの中にどっぷりと浸かるべきなのだと思う。『ボクコネ』が難解かというとまた話は変わるが、色んな人が考察を繰り返して、その考察を見てまた考察をしてというループによって、この作品はいつまでも豊かになる気がしてやまない。

 

「わからない」から始めてみることはとても面白いことである。