眠れない物語のペイジ

私立恵比寿中学の諸々を徒然なるままにつづるブログ

スポナビのCMの表現力について。日記。

「2020年、こんな春の訪れを誰が想像しただろう。桜の蕾が開く頃、この国のあちこちで一斉に鳴り響くはずの歓声も、トランペットの音色も、まだ、誰の耳にも届かない。けど、下なんか向くなよ。9年前のあの時だってそうだった。長く待った分、その日を迎える喜びは格別だったじゃないか。呆れるほど通いつめたこの場所で、汗垂らして、ため息ついて、声張り上げて。そんなどうしようもなく平凡で最高の日々が戻ってくるその日まで

待ってるぞ。プロ野球

見せてくれ、プロとして戦い続けることの尊さを。」

 

 

柏木ひなたさんがナレーションをしていると聞いて安易に見たスポナビ野球速報アプリのCM、こちらはそのナレーションの文字起こし。この文章、個人的にめちゃくちゃすごいと思う。

 

何がすごいって、固有名詞と直接表現の少なさ。それでいて全員が同じ出来事やそれぞれの景色を想起できる言葉選び。

 

説明しないという美しさ。引き算。それが出来る着眼点と文才。

 

 

わかりやすくするために、試しに全て直接表現したバージョンに上記のCMを改編してみる。

 

「2020年、コロナウィルスの影響でまさか開幕戦が延期になるなんて。3月中旬、日本の中で行われているはずのプロ野球の試合はまだ行われていない。けど、落ち込むな。東日本大震災の時だってそうだった。長く待った分、再開された日はとても嬉しかったじゃないか。何回も通いつめた野球場で勝って、負けて、応援して。そんな毎日野球を観戦できる楽しい日々が戻ってくる開幕の日まで

待ってるぞ。プロ野球

見せてくれ、プロとして試合をすることのすごさを。」

 

中身だけ見れば言ってることは大して変わらないのである。大きく異なるのは表現方法。前者は間接表現、比喩。後者は直接表現、固有名詞。それだけなのに、比較するとまぁ感じるもの、迫ってくる印象が雲泥の差。

 

この差って何ですか?

 

固有名詞や直接表現が感情を揺さぶれない原因はいくつかある。なかでも大きいのは「想像が広がる余白を奪う」ということである。例えば「桜の蕾が開く頃、この国のあちこちで一斉に鳴り響くはずの歓声も、トランペットの音色も」と聞いて私たちは、桜の色、風に花が舞う様子、暖かさ、球場に足を運ぶ興奮、初めて歓声の大きさを聞いた喜び、トランペットの音と共に見た景色、を順番に想起するだろう。とても自然な順番で。しかしこれが「3月中旬の野球の試合」と表現されたらどうだろう。ここまで五感を豊かに働かせることができるだろうか。直接表現をしてしまうと、お客さんがゆっくり景色を想起して物語に入り込む余地がなくなってしまうのである。

 

例えば物語の話をしよう。舞台上に空間があって、ソファがいくつか並べられていて、その一つに大きな荷物を持った男が座っている。この段階ではまだここがどこか、彼の目的もわからない。キャリーケースを転がしながら見知らぬ家族が笑顔で横切る。チケットのような紙と時計を見比べて小走りになっているサラリーマンがいる。CAさんが来る。飛行機のエンジン音が鳴る。二人分のジュースを持った同年代の女性が男の横に座る。観光ガイドを広げて二人で話し始める。搭乗口をアナウンスする音が鳴る。

 

お客さんはこれらの状況を自分の過去の体験から想起されたものと結びつけて「ここは空港で、男は搭乗を待っていて、隣の女性は恋人で、これから旅行に行く可能性が高い」と把握する。これらの要素は大抵の人が等しく空港だと連想できるものであり、この時点で早速物語に入り込むという共同体験が行われているのである。逆に言えばこれらの要素を繋ぎ合わせれば空港だとわかるのだから「空港だ」と明言するのは余計なのである。

 

一方例えば、男がソファに座って一言「あーここは空港で今沖縄に行く飛行機の搭乗を待っていてもうすぐジュースを買いに行った彼女が戻ってくるなー」と言うとしよう。お客さんは一発で状況を把握できるが、入り込む余地はもうどこにもないどころか、うるさいなダサいなと感じてしまう。

 

とはいえ、こうした直接手法が活きることはなくはない。例えばコント。サンドウィッチマンが「昨日までなかったのに急にハンバーガー屋が出来てるな。」と言う類いのやつである。彼らがそうするのは、そこに割く時間があるなら本題であるボケを一つでも増やした方が笑いの量が増えるから。ここが本質ではないからである。テレビやショーレースで披露出来るネタ時間は4分~5分ほどであるから、とにかく時間がない場合は有効だ。しかし、例えば東京03ラーメンズかが屋などはこの関係性の構築を丁寧にやる。時間はかかるが、丁寧にやればやるほどお客さんは考えて、感じるため、突飛な言動でなくともちょっとした関係性のもつれや立場の逆転一つでとんでもなくおもしろく感じるのである。

 

固有名詞の危うさは他にもある。それは「個人的な思い出に置き換えられない」ということである。例えば、スポナビのCMでいえば「呆れるほど通いつめたこの場所で」が「呆れるほど通いつめた東京ドームで」だったらどうだろう。こう明言された途端、11球団のファンの頭から個人的な景色が消えるのである。固有名詞を使う度に想起できる範囲が狭まってしまうため、お客さんを突き放す可能性と背中合わせなのだ。

 

感動は共感から始まる。先程の話とも通じるが、お客さんが感動するためには物語に入り込む必要がある。そのためには「余計な情報がないこと」「自分が入り込む余地があること」が重要で、固有名詞や間接表現はそれを巧みにやるために器用に使い分けられなければならない。

 

使い分けとは。

スポナビのCMを例にする。まず、スポナビのCMだと知っている時点で「野球」「野球場」「開幕戦」などの情報は余計である。「この場所でその日をむかえる」と言えば、「野球場で開幕戦」と容易に想起できるためである。さらに12球団のファンが等しく見るのだから、球場を明言するのは余計である。しかし、ファンをよりナレーションに入り込ませるためには、12球団のファンが等しく体験できる個人的な出来事を表現する必要がある。それが「トランペットの音」なのである。野球ファンなら誰もが聴く音、個人的な記憶が想起されやすい表現。こういった場合には固有名詞が非常に活きてくる。

 

槇原敬之が「君がいない」ということを「紅茶のありかがわからない」と表現したり、チャットモンチーが「放課後の学校」を「汗の臭いが染み付いたグラウンドも、ロングトーンのラッパの音も」と表現したり、この固有名詞と間接表現の使い分けによる共感の生み方がうまいかどうかで入り込み方が大きく異なると思う。

 

脚本家の坂元裕二が「プロフェッショナル」という番組で

 

「私、この人のこと好き、目キラキラ」みたいなのは、やっぱりそこには、本当はない気がするんですよね。バスの帰りで雑談をして、バスの車中で、「今日は風が強いね」とか、「前のおじさん寝てるね~」とか、「うとうとしてるね~」とかそんな話をしながら、「じゃあね」って帰って行って、家に着いて。1人で、テレビでも見ようかなって思ったけどテレビを消して。こうやって、紙を、折りたたんでいるときに、「ああ、私あの人のこと好きなのかもな」って気が付くのであって。小さい積み重ねで、人間っていうのは描かれるものだから。

と言っていた。人間は直接表現を避けて生きるものだ。

 

なんの話だっけ。

 

とにかく、僕はスポナビのCMに共感し、感動した。野球4回しか観に行ったことないけど。