コナンの厄介オタクにならないための言い訳
「昔と変わった…!大衆に媚びないところが好きだったのに…!」みたいな批判をするトガったバンドのファン、実際にいるかいないかは別として(いるけどね)「イタイやつあるある」の象徴のように扱われる。
なにが「イタイ」んだろうか。考える。
そもそも「変わってしまったな」という感情は大なり小なり誰しもが抱くものだと思う。それは「変わらないものなんてない」から。音楽なり、映画なり、漫画なり、ずっと同じポリシーを持って、ずっと同じ方向に熱意が向かっていて、ずっと同じような作品を出し続けている人がいるだろうか。いるわけがない、と僕は思う(いる気もするな。ドラえもんとか?まぁいいや)。やりたいこともニーズもいつかは変わる。バンプもラッドも米津玄師もテレビに出るようになるし、ゆずは寺岡呼人を離れるし、ミスチルも小林武史を離れるし、ももクロも「ハツラツ!全力!奇想天外!」のままではいられない。たまたま邦楽の話に偏ってしまっているけど、まぁつまりはそういうこと。
だから「変わってしまったな」と思うことはむしろ当たり前であって、「イタイ」の正体ではない。
では何が「イタイ」なのか。
それはたぶん「変わることは悪だ!」「変わらないことが正義だ!」という論調を持ち出して、あげく「変わること」に対して言葉の刃を向けてしまうこと。いくら言葉を重ねたってあの頃の愛していた姿には戻らない。変わってしまったんだもの。
まぁ自分が愛していた時間を正義としたいのはそれもまた当然だなと思いますけどね。好きになった瞬間の高揚感、いわゆる思い出補正も相まってしまうわけだし。
では「変わってしまったこと」に対して、どう折り合いをつければいいのか。それは、多分「離れること」以外にはどうすることもできない。すごく、寂しいことだと思う。けれど、自分が愛していた時間にどうしても固執してしまうようなら、きっとその思い出が変わってしまわないようにそっと目を背けるしかない。厄介オタクになってしまう前に。
さて、ここからは個人的で具体的な話。
劇場版名探偵コナン
めちゃめちゃ好きだった。コナンは元々漫画を読んでいただけだったけれど、テレビでやっていた「天国へのカウントダウン」に魅せられて、そこから取りつかれるようにハマった。「ベイカー街の亡霊」は台詞を暗記するほど見たし、「迷宮の十字路」も「時計じかけの摩天楼」も「世紀末の魔術師」も例に漏れず、テレビをのぞいているだけの家族が暗記しかける位には観ていた。コナンキャラの心情の芯、推理、アクション、ラブ、色んな要素が丁寧にあって、なによりコナン愛に溢れていた。とにかく好きで、観まくった。何度も何度も。
親の許しが出て、初めて劇場に行ったのは11作目の「紺碧の棺」という作品。劇場で観ることができたという高揚感にただただ浸っていたこと、帰りに食べたお寿司の味、会話、鮮明に覚えている。
そこから僕は毎年公開翌日までには観に行くこと、下敷きA,Bとミニタオルとパンフレットは必ず買うとこという2つのルールを何故か自分に課して、劇場版名探偵コナンという存在を愛しに愛した。
それから数年が経ち、
初めて「ん?」と思い始めたのは「沈黙の15分」という作品を観た後だった。正確にはその前から「ちょっと推理パートが弱いな」とか、「なんかいまいちだったなー」と思うことはあったけど、明確に「ん?」と思ったのは初めてで、ちょっと驚いた。なんだか、電車の脱線とか、コナンと雪崩とのレースとか派手で爽快だけど、あんまり推理してない。っていうか全然。新聞の裏表?雪が降って足跡がうんちゃらかんちゃら?それだけ?え?コナンだよね?
それでも1500円というお金と劇場まで足を運んだ時間がガキンチョの僕に脳麻痺を与えて、明確に「つまらない!」と判断するまでに4年もの月日を要した。
最後に劇場で観たのは「業火の向日葵」という作品。異次元の狙撃手ではギリギリ我慢できたけど、動機の雑さ、推理パートの蔑ろ具合、なにより、二作連続ゲスト声優をそのまま事件の重要人物に置いてしまう安易さなど、色々な「推理への愛のなさ」が目立ちまくった。
この作品を観終わったあと、僕はコナン映画を観ることをやめた。
これは批判ではない。だんだん批判の様相を呈してしまっているけど。
コナンは推理映画をやめて、アクション映画に変わっただけなのだ。
11人目のストライカーの電光掲示板落ちもスタジアム直行スケボーも、業火の向日葵の鍾乳石演出も、アクション映画としてはとても見ごたえがあって、壮大なものだった。推理に割く時間を極端に減らして、アクションに熱を費やした、その所産が作品に色濃く表れただけである。
後々調べて分かったこと。コナン映画は
こだま監督時代 1作目~
山本監督時代 8作目~
静野監督時代 15作目~
バラバラ監督時代 22作目~
の4つの時代に大きく分かれる。監督が変わればやりたいことも変わる。僕が明確に違和感を覚えた15作目からは静野監督の時代。逆に取りつかれるように好きだった作品は全てこだま監督の作品だった。何も知らないガキにも監督による作風の違いって伝わるんだなーなんて少し驚いた。それはさておき、静野さんはアクションの使い手だったわけだ。彼が参加して、コナンはアクションという新しい功績を手に入れたのである。何故に功績と表現するかというと、最近のコナンの興行収入が右肩上がりに爆速で上がっているからである。つまりコナン映画のニーズはアクション(あるいはイケメン)にあったということがわかる。
だから、僕はもう劇場版名探偵コナンからは目を背けなればならない。推理がなくなってしまったコナンをどうしても愛せないから。
もう観てはいけないのだ。
もちろん思い出補正は大きい。アクションは今に始まったことではないし、爆破も頻繁にあったから。それに純黒以降推理要素が帰って来た可能性もあるけど、それはもう見れていないので批判をする資格すらない。
でも、たぶん、あの頃のコナンはもう帰ってこない。こだま監督のコナンは帰ってこない。
もう戻れないんだという事実にさびしくなるし、アクションにニーズがあったことにもっともっとさびしくなるけれど、そんなさびしさを抱えながら目を背けなければならない。
僕は「劇場版名探偵コナンが好きだった人」だ。